アイルランド行く前に知っとかないと! アイルランドの歴史総まとめ


アイルランドに行くならアイルランドの歴史を知っておいて損はないでしょう!初めての国に何の情報も持たずに行くことも刺激的で楽しいですが、その国についての基本知識を持っておくとより深い楽しみ方ができるはず。

ここではアイルランドの歴史を総まとめしています。興味ある人も、行く直前の人も、もう到着しているという人も、ある程度知っておきましょう。多くの観光スポットではその歴史的背景が紹介されています。アイルランドの歴史を一読してから行く観光はひと味違いますよ。これを一通り読んでから観光をすれば「あ!ここってあの時の!」ということがたくさんあるはず。

〜BC300

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BCというのはBefore centuryの略で紀元前という意味です。アイルランドと言えばケルト人と想像する人も少なくないですが、ケルト人が来たのはこの紀元前300年頃なんです。その前にも人間は住んでいたのですが、ケルト人よりも前の人々についてはほとんど情報がなく、多くが謎に包まれているんです。観光としても有名なニューグレンジの巨大墳墓はケルト人ではなくこの謎多き人々が作ったものとされている。

BC300~AD5

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ADはAnno Domini(アンノ ドミニ)の略で「主(イエス・キリスト)の年」という意味で、いわゆる西暦のことです。
ケルト人が来てからはどうなったのかというと、1つの国としてまとまるわけではなく、各小グループがそれぞれの小さい王国を作っていました。その数なんと150。これは日本が藩によってわかれていたのと似ていますね。このようにケルト人は1つにまとまるという統一意識はあまりなかったのですが、言語や宗教などは同じものを使用していたようです。言語はゲール語、宗教は自然崇拝、法律はブレホン法でした。自然崇拝というのは自然にあるものや自然現象を神格化して扱うということです。たとえば空や大地、太陽などを崇拝するということです。ブレホン法は当時の法律家階級がブレホンと呼ばれていたことが由来となっている。ケルト人はその時代のローマ人たちによって野蛮人であると書かれているが、彼らのとてもクオリティの高い金細工はとても野蛮とは思えないものだ。
面白いのはこの時代高い地位にいたのが「詩人」ということだ。なんと詩人は時に国王以上の権力を持っていそうです!詩人が国王以上。。。なかなか想像しにくい社会です。詩人が重要視されていたため、ブレホン法でも「人を欺く詩人」には罰金となっていました。しかしアイルランドから4人のノーベル賞作家が生まれているアイルランドはこの時代からその文学大国の基礎を築き始めていたのかもしれません。

5〜8世紀

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5世紀からはアイルランドが一気に変わってくる。その主要な原因としてあるのがキリスト教の広まりだ。アイルランドにキリスト教を広めたのがアイルランド最大のお祭りの名前にもなっている聖パトリックだ。しかしアイルランドには元々キリスト教とは別の宗教があったにもかかわらずどうやってキリスト教を広めたのか。なんと聖パトリックはキリスト教を無理やり広めるのではなく、元々あった宗教をキリスト教に取り込んでいくことによって自然に、そして素早く国中に広めていったのだ。そのためアイルランドのキリスト教は他のヨーロッパの国々のキリスト教と比較すると異なった特徴を持っていると言われている。これが今日のアイルランドの土台を作ったと言っても過言ではないため、その功績を称えるためにも3月17日はセントパトリックデーとして、アイルランド中でパレードがある。
修道院で信仰をすることがその当時は普通で、修道士は祈り、労働、聖書研究などの日々を送っていた。そんなアイルランドを見てか、他国からは「学書と聖人の島」と言われていた。そんな忙しい修道士だが、国の土台を作った宗教であるため、その地位は次第に上がっていきとても裕福になっていった。

8~11世紀

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アイルランドの観光地にもよく出てくるヴァイキングはこの頃からだ。ヴァイキングは航海技術を武器に当時裕福であった修道院を狙って略奪を繰り返していた。うまいのはヴァイキングが略奪をするだけでなく商人としての才もあったことだ。貿易によって街は大きくなっていった。ダブリンやウォーターフォード、リムリックなどの街はヴァイキングが作った街なのだ。
ただ黙ってばかりではないケルト人。あまり団結力のなかったケルト人だが、ヴァイキングを倒すために一致団結し、1014年のクロンターフの戦いでヴァイキングを見事破ったのだ。

12世紀

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ヴァイキングを破り一段落したかと思えばそうではないのだ。隣国であるイングランドを征服していたノルマン人が次はアイルランドに侵略してきたのだ。ストロングボウとも呼ばれるリチャードドクレアがアイルランドに上陸し、その後に当時のイングランドの国王であるヘンリー2世がアイルランドに上陸し、それとともに多くのノルマン人がアイルランドに移り住んだ。イングランドによるアイルランド支配は700年にも及ぶのだが、その始まりはここからだと言われている。
ノルマン人の支配の方法は武力でおさえつけるようなものではなく、自然に支配していく方法なのだ。ノルマン人はアイルランド人の服を着てゲール語を話していたためほぼ彼らと同化していたのだ。「アイルランド人よりもアイルランド人らしい」と言われていたくらいだ。しかしこのままだとアイルランドがノルマン人に完全支配されてしまうため、それを恐れたアイルランド人は「ノルマン人のゲール語禁止」「アイルランド人との結婚禁止」などのなかなか無理やりな法律を作ったのだ。結果、やはり無理やりすぎたためか効果はあまりなかった。

16世紀

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この状況が大きく変わった原因がイングランド国王ヘンリー8世の離婚問題から起こった宗教改革です。ヘンリーはなんとアイルランド国王になることを宣言し、ダブリンからしっかりと支配していく体制を整えていったのだ。
ヘンリー8世の娘であるエリザベス1世はその後のヘンリーの政策を継ぎ、イングランドに不満を持っていたアイルランドの人々の反乱を返り討ちにしてしまう。これをキンセールの戦いと呼んでいる。当時のアイルランド首長であったヒューオニールなどは他の国へ亡命している中で最も抵抗したのがアルスター州だった。そのためエリザベス1世はスコットランドからプロテスタントをアルスター州に送り、反乱が起きないようにしたのだ。これが北アイルランドである。

1599~1658年

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エリザベス1世が死去してからイングランドの国王はスチュアート朝に継がれたのだが、スチュアート朝はカトリックだったため、プロテスタントの議会とよく対立するようになってしまった。その対立は激化し、王党派か議会派に分かれての内乱に発展した。アイルランドは主にカトリックだったため王党派を支持し、アイルランドのプロテスタントに攻撃を加えるようになっていったが、イングランドでは結局議会派が勝利し、国王であったチャールズ1世が処刑された。これがピューリタン革命と呼ばれる革命だ。
議会派のトップであったクロムウェルはイングランドの内乱が落ち着くとアイルランドへ移りアイルランドカトリックの弾圧を始めた。虐殺だけでなく、土地も奪い、それを自分の支持者へと再分配したのだ。この行為によりクロムウェルはアイルランドで最も嫌われている歴史人物となっている。

1690年

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プロテスタントのクロムウェルの死後、再びイギリスでは王政となった。王位にはジェームス2世がついたが、なんとこのジェームスはカトリックであったため、議会との対立をまた招いてしまった。100年経って同じことをしてしまっているのだ。
ジェームスはフランスへ亡命。王がいなくなったイギリスはオランダからオレンジ公ウィリアムを招いた。これが俗にいう名誉革命である。ジェームスは亡命したフランスの力を借りて王位に戻ることを目指してアイルランドへ上陸。そしてウィリアムもその後を追うようにアイルランドへ。イギリス王位を巡っての壮大な戦いがここアイルランドで繰り広げられることになる。
この壮大な戦いがボイン川の戦いと呼ばれ、ウィリアムが結果勝利した。ジェームスは再びフランスへ亡命。アイルランドに残されたアイルランド軍はリムリックで降伏している。このときに結ばれたリムリック条約ではカトリックを寛容に扱うとされていたのだが、結局その後の議会ではカトリックを厳しく取り締まるような法律が制定されていった。いまでもリムリックに残っている条約の石はこのイギリスの裏切りを忘れないためにある。ボイン川の戦いで敗れたアイルランドのトップたちは各国へ亡命。彼らはWild Geese (野生のがちょう)と呼ばれ、アイルランド人は再び自分たちのリーダーを失ってしまうことになる。

1796〜1801年

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ここで新しい国がアイルランドに大きな影響を及ぼすことになる。それがアメリカだ。18世紀末のアメリカの独立がアイルランド人のイギリスからの独立を猛烈に意識させるようになる。この時期にイギリスから独立するためにUnited Irishmenという組織が作られた。独立運動が非常に激しくなってきていることをおそれたアイルランド議会は自らの議会を閉鎖し、1801年に正式にイギリス領となることを決断した。

1775~1847年

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結局プロテスタントが議会を動かしており、カトリックは選挙権もなく、職業なども制限されていた。この状況を打破するために活動したのがダニエル・オコンネルだ。ダニエルはカトリック協会を設立し、カトリック解放令をついには勝ち取ったのだ。
解放者として称えられたダニエルが次に試みたのがアイルランド議会を復活させることだった。平和的な解決を目指し何十万人もの人が彼の集会に参加し、これはイギリスの脅威となった。しかしイギリスがこの集会を中止するように働きかけ、ダニエルも平和的な解決を望んでいたので中止してしまったのだ。これが原因で求心力を失い、ダニエル政治は勢いがなくなってしまった。
オコンネルストリートにある大きな銅像はこのダニエルオコンネルのもの。

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1845〜1847年

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ダニエル政治が勢いをなくなってからアイルランドは悲劇に見舞われることになる。それが大飢饉である。ジャガイモの立ち枯れ病という病がアイルランド中に広がってしまい、ジャガイモに頼りきっていたアイルランドの産業は大ダメージを受けた。イギリスは特にアイルランドを助けるわけでもなく、アイルランドでは100万人以上が餓死、さらに100万人はアメリカに移住したと言われている。そのためアイルランドとアメリカはとても深い関係となっている。大飢饉前は800万人いた人口を今も回復できないでいる。写真はダブリンにある大飢饉のモニュメントである。モニュメントからもその悲惨さが伝わってくる。

1846〜1891年

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悲惨な大飢饉が起こってしまいアイルランドの産業がぐらついている中で躍動したのがスチュアート・パーネルである。彼はイギリス議会の議員になるとアイルランド人へ土地を戻すためのアイルランド土地連盟を設立。後に土地戦争と呼ばれるこの戦いに勝利した彼はアイルランドの自治に取り組もうとした。なんといってもイギリスに支配されているため、アイルランドとして独立しようと奮闘していたのだ。だがその途中で女性関係のスキャンダルが発覚してしまいスチュアートの勢いもなくなってしまう。。。

19世紀

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ここからアイルランドの文化が徐々に構築されていくことになる。昔からアイルランドで行われていたスポーツであるハーリングとゲーリックフットボールをゲーリック運動協会が復活させたのだ。そしてイエーツやグレゴリー夫人らがアビーシアターを造り演劇文化を発展させていった。演劇の国としても知られるアイルランドはここから徐々にその土台が出来上がっていく。

1916年

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1912年にイギリス議会ではアイルランド自治を認める法案が通過となったのだが、第1次世界対戦の影響で施行が延期されていた。1916年のイースターに共和国派の一部がダブリンを制圧しアイルランド共和国の宣言をしたのだが、イギリス軍に襲撃され、ものの数日で制圧されてしまったのだ。これをイースター蜂起と呼んでいる。独立できそうになってはできない、というのを繰り返しているアイルランドの歴史なのだ。イギリス政府がこれに関わった人々を処刑したことがアイルランド人をやる気にさせた。1918年の選挙では共和派のシン・フェイン党がついに勝利。彼らはイギリス議会には行かず、アイルランドで議会を設立し、アイルランド共和国の宣言をしたのだ。
イギリス政府がイースター蜂起に関わった人々を処刑したのが観光スポットにもなっているキルメイナム刑務所だ。

1919~1922年

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シン・フェイン党の独立宣言によりイギリスとアイルランドの戦争が勃発。アイルランド議会のリーダーはイースター蜂起の生き残りであるエーモンデ・ヴァレラとマイケル・コリンズ。この問題は国際的にも注目を集めていたため、大人の対応ということで両者が交渉することとなった。イギリス側は当時の首相であるロイド・ジョージなど経験豊富なメンバーが揃う中、アイルランド側はマイケル・コリンズ。なぜかエーモンデ・ヴァレラは交渉に参加しなかった。結局、アイルランド側は北アイルランドがイギリスに残ることと、共和制ではなくイギリス王室に忠誠を誓いイギリス連邦に残ることを認めてしまった。またしてもアイルランドの完全な独立の一歩手前で阻止されてしまった。

1922〜1949年

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イギリスとの交渉の末、アイルランドの独立とまではいかなかったが国民投票によってアイルランド自由国の誕生をイギリスが認めた。アイルランド自由国と言っても独立ではなく、あくまでもイギリスに忠誠を誓いながら自由にやっていいよ、というイメージ。しかし完全な共和国を目指していたエーモンデ・ヴァレラ達のグループが分裂してしまい、内乱となってしまう。マイケル・コリンズは暗殺、エーモンデ・ヴァレラは投獄されてしまう。多くの共和国派の犠牲を払いながら内乱は終結。その後の第2次世界大戦では中立を守り続け、1949年に正式にイギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国が誕生した!
写真はリフィ川沿いにあるフォーコーツ。内乱の際に反条約派が立てこもっていて、自由国側が砲撃をした場所だ。

1968〜1999年

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ここではイギリス領となったままの北アイルランドに焦点を当てる。北アイルランドではエリザベス1世がスコットランドから送ったプロテスタントが多数を占めていた。1968年からカトリックプロテスタントとの衝突が増加し、イギリスは治安維持のために軍を北アイルランドに派遣した。
1972年に血の日曜日と呼ばれる事件が起きる。ロンドンデリーでカトリックの行った平和的なでもに対してイギリス軍が発泡し13人の市民が命を落とした。その翌年には北アイルランドの議会は閉鎖となり混乱はさらに拡大していく。
カトリックの過激派は北アイルランドだけでなく、ロンドンなどのイギリスにもテロを行い、そのテロに対してプロテスタントともテロを行うという悲惨な状態。投獄されたカトリック過激派は自分たちを政治犯として扱うことを求めハンガーストライキ(物を食べない抵抗)を実施し10人が獄中で餓死するという事態となった。政治犯として扱うことを求めるだけで餓死するまで抵抗するというのはどれだけこの宗教問題が深刻だったかを物語っている。
さまざまな犠牲を出しながらも徐々にこの関係は回復し、1998年の聖金曜日にベルファスト合意と呼ばれる和平が合意された。そしてその翌年には北アイルランド自治政府が設立された。
アイルランドの独立もそうだが、北アイルランドとの関係も多くの犠牲がありながらも長い時間をかけて平和的関係ができあがっている。

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