完全版アイルランドの歴史概略!


アイルランドの歴史について知ることが、現地の生活や文化の理解に繋がり、より深いレベルで心を通わすことができるでしょう。この記事ではアイルランドの歴史をまとめていますので、気になる箇所から読んでみてください。

目次:アイルランドを歴史から紐解く

  1. ケルト人の進出とヴァイキングの支配
    1. ケルト以前のアイルランド
      ケルト人の進出
      ケルト詩人のDNA
      キリスト教と聖パトリック
      信仰の拠点「修道院」
      ヴァイキングの台頭
  2. イギリスの支配と2つの革命
    1. ノルマン人のアイルランド支配
      本格的なイギリス支配のはじまり
      ヘンリー8世と宗教革命
      カトリックとプロテスタントの対立
      名誉革命
  3. アメリカ独立運動の多大な影響
    1. 独立運動後のアイルランド
      解放者ダニエル・オコンネル
      アイルランドの大飢饉
      19世紀の最重要人物「スチュアート・パーネル」
      ゲーリック・リバイバル
  4. 20世紀以降の戦争とアイルランド
    1. 第一次世界大戦:イースター蜂起
      アイルランド共和国の設立
      イギリス・アイルランド戦争
      北アイルランド問題

ケルト人の進出とヴァイキングの支配

世界には数多くの人種や文化、言葉が存在します。ケルト人やヴァイキングはアイルランドにどのような影響を与えたのか、ここから物語はスタートします。

「ケルト」という言葉は比較的耳にしますね。殊、アイルランドにおいてケルト人によるケルト文化は非常に重要なキーワードです。

ケルト以前のアイルランド

このケルト人がアイルランドへやってきたのは一説によると紀元前300年頃。それ以前にもアイルランドには人が住んでいたと言われています。彼らは中東で農耕が始った後、中東からフランスやスペインを経由してアイルランドへやってきたとか。歴史的なものとしては、ニューグレンジに代表される巨石墳墓や、ドルメンなど、これらは彼らにケルト人以前にその地に住んでいた人々によって造られたと言われています。

ケルト人の進出

その後、紀元前1200年頃に登場して中央・西部ヨーロッパを支配していたケルト人が、紀元前300年頃にアイルランドへやってきたというわけです。そうしてアイルランドでは、元いた先住民の影響を受け、アイルランド固有のケルト文化が出来上がりました。

紀元1世紀末、ローマ軍がグレートブリテン島を征服しましたが、軍はアイルランドまでは進軍しなかったため、アイルランドはローマ帝国の支配下には入らず、古代アイルランドでは100ほどの小王国が乱立していたのです。

ケルト詩人のDNA

しかし文化的な面を見ていくと、政治的な側面とは相反して統一がなされており、同じ言語(ゲール語)、宗教(ドルイドを中心とした自然崇拝)、法律(ブレホン方)を共有していたとされています。しばしばローマ人が伝え残している、「ケルト人は野蛮な民族」という内容は間違いと言われています。

実際のところは、精巧な金細工など、発展した民族と言えるものが今でも残っていて、それらはダブリンにある国立考古学・歴史博物館に展示されてます。

またケルト社会において、特筆すべき内容の一つが詩人が非常に高い地位にいたという事実です。場合によっては王よりも強い権力を持っていたとも考えられています。そして、今尚詩人のDNAはアイルランドにしっかりと引き継がれています。その証拠にアイルランドは4人のノーベル賞作家を生み出している文学国家であることが挙げられるでしょう。

キリスト教と聖パトリック

アイルランドはローマ帝国支配下には入らずどのようにキリスト教を受け入れたのでしょうか?この疑問に答える上で欠かせない人物が聖パトリックという守護聖人です。聖パトリックはアイルランドの宗教に多大な影響を与え現代に至るまで多くの人に敬意を払われる存在なのです。

実際にアイルランドでは、3月17日の”セント・パトリックス・デー”というお祭りが開催されるほどです。3月17日にアイルランドだけなく世界各地が緑色に染まるのは、宗派を問わず崇拝されていることの裏付けです。

聖パトリック

ケルト人が文明を発展させた後、5世紀に入ると宗教に大きな変化が表れ、キリスト教が急速に広まっていきました。起因となったのものこそが、守護聖人であった聖パトリックの活動なのです。ちなみに彼はグレートブリテン島に生まれた後、アイルランドからの侵略者によってアイルランドへ連れてこられ、6年間奴隷として働かされた後に脱走し、布教活動のために舞い戻ってきたと言われています。彼はアイルランドで広まっていた現地の宗教、信仰の中にキリスト教を取り組んでいくことでアイルランドで急速なキリスト教化を可能にしました。

またアイルランドの宗教観に深く触れると、他の国のキリスト教と異なる点も見受けられます。それは聖パトリックが今でいうキリスト教と古来宗教のハイブリットを実現したからなのです。

信仰の拠点「修道院」

アイルランドにおけるキリスト教の信仰の中心地は修道院であり、修道士たちは彼らの所属する修道院で労働をしながら、日頃祈りに打ち込んでいました。それまで文字を持たなかったアイルランド文化にも、聖書研究のためにラテン語を学んだ修道士たちを通じてラテン語が移入。詩人や法律家もラテン語の影響を受けたことは言うまでもありません。そうしてアイルランドはいつしか”聖者と学者の島”といわれるようになったのです。

修道院の中には院長が創設者の家系から選ばれるところもあり、有力者の中から妻をめとり、王侯貴族のような生活をするものもいたようで、なんだか”修道士”というイメージとはマッチしないような感じもします。このことが、アイルランドの修道院制度がローマ教皇の統制下になく独自に発展したことを示しているともいえますね。現地の博物館に保管されているタラのブローチやコングの十字架、アーダの聖杯などがいかに修道院が潤っていたかを語ってくれます。

ヴァイキングの台頭

ヴァイキングがアイルランドに初めてやってきたのは795年。スカンディナヴィア人の海賊であるヴァイキングは航海技術が非常に長けていたため、高度な技術を使った西ヨーロッパへの航海は彼らにとって難しいものではありませんでした。主要な目的の一つが、人口増加に伴う新しい土地への移住でした。一つ前の項目で取り上げた富を蓄えていた修道院を狙って略奪を続けていったのです。

ヴァイキング商業

意外な商才で潤うアイルランド

ヴァイキングはアイルランドやイングランドにおいて略奪のイメージが非常に強いかもしれませんが、そのほかにも商人という一面も併せ持っていました。実際彼らはアイルランドと外部世界との橋渡しとしてアイルランドへ富をもたらしたのです。中にはアイルランドへ港を作った者や、アイルランド人へ船を使った戦い方を伝授した者もいたのです。”海賊”と聞くと襲撃や略奪のイメージが強いですが、ヴァイキングの襲来によってアイルランドが得たものも数多くありました。

バイキング商業

ヴァイキング時代の終焉

間違いなくアイルランドにおいて、彼らが中心となった一時代を築き上げ商業都市化したヴァイキングたちは、時代の流れとともにケルト人と同化し、影響も薄れていったのです。ちなみに、ブライアン・ボルー率いるアイルランド連合軍が「クロンターフの戦い」でヴァイキングを打ち破ったという説があります。ただ実際はブライアン・ボルーの北部支配に、自分の膝元だと思っていた中部の人たち反旗したという説が正しいようです。

イギリスの支配と2つの革命

ヴァイキングが支配下においてたアイルランドですが、その後は誰がアイルランドを支配していくようになるのでしょうか…?

ノルマン人のアイルランド支配

ヴァイキング時代以降はイギリス征服を果たしたノルマン人がアイルランドにも進出してくるのです。リチャード・フィッツギルバート(ストリング・ボウ)がアイルランドへ上陸したのが1169年のこと。実は19世紀まで続いたイギリスによるアイルランド支配はこの時代から始まったのです。

アイルランド支配を実現すべく動き始めたノルマン人ではありますが、アイルランド勢力は抵抗し続けていました。押さえておきたいポイントとしては、ヴァイキングと同様に、ノルマン人も現地のアイルランド人に同化していったという点です。ノルマン人のゲール語の使用禁止、アイルランド人との結婚を禁止などの法整備がなされるなど阻止する勢力もありましたが、「アイルランド人自身よりアイルランド人らしい」とまで言われるほど、ノルマン人のアイルランド人との同化は増す一方でした。

本格的なイギリス支配のはじまり

また時代は流れます。ノルマン人が同化しつつある一方で、今度はイングランドがアイルランドを支配するようになります。ヴァイキングの影響も薄れ始め、従来のアイルランドの文化が復活したアイルランドでは再び小王国が乱立する状態となりました。そこでは諸王の争いが絶えず、敵に追われたレンスター地方の王がイングランドのヘンリー2世に援助を求めたのです。

もともとアイルランドの土地を狙っていたイングランドからすれば、とても好都合な状況でした。この流れの中でアイルランドにはイングランドの政治制度が導入されるようになりました。しかしながら、彼らもアイルランド先住民を根絶したり追放することはせず、”共存”という道を選んだのです。

ヘンリー8世と宗教革命

イングランドの進出で着実に変化を遂げてきたアイルランドでしたが、 テューダー朝によって事態は一変することになります。それがかの有名な宗教革命です。この宗教革命はイングランドで宗教改革を実施したヘンリー8世が、アイルランドにおいても同じことを試みたことで起こりました。

経済的、政治的な背景も強い教皇権と分離した英国国協会(プロテスタントから分離したカトリック)を設立し、新たな教会組織を生み出そうとしたのです。そして、同時にアイルランド議会から王の称号を贈らせイングランド王がアイルランド王も兼ねることとなったのです。

アルスター入植

エリザベス

エリザベス1世は父であるヘンリー8世の政策を受け継ぎ、イングランドに不満を持つ貴族の反乱を制圧しました(キンセールの戦い)。 この反乱で最も抵抗したのが、アイルランド北部に位置するアルスター州。しかしアルスター州を拠点としたアイルランド領主連合は1605年に鎮圧され、負けた領主たちはおとなしくイングランドへ土地を受け渡すことになります。

エリザベス1世は未婚のまま死去したため、スコットランド王ジェームズ6世がイギリス王ジェームズ1世として即位することとなります。エリザベス1世の後を受け即位したジェームズ1世は、領主たちから得た北アイルランドという土地にイングランドやスコットランドから人を送りこんだのです。今尚続く北アイルランド問題はこのことに起因しています。

エリザベス1世の後を継いだジェームズ1世は、スチュアート朝を開き王権神授説を主張、議会を無視した政治を行い、ピューリタンを弾圧しました。

イエス・キリスト

カトリックとプロテスタントの対立

父ジェームズ1世の後を継いだチャールズ1世は、父の専制政治を更に強めて議会を解散させ、11年にわたって専制政治を続けました。その結果王党派と議会派に分かれての内乱状態に突入。最終的にイギリスでは議会派が勝利を収めます。その議会派の議会派の中心指導者クロムウェルは、勝利後権力を握ったためあいるらやスコットランドへ侵出していきました。
キリスト教内部
(http://zexy.net/より)

クロムウェルの大虐殺

アイルランドへ遠征してきたクロムウェルは1649年、12,000名の将兵を率いてダブリンへ上陸。ドロハダでの4000名、ウェックスフォードで2000名の大虐殺を行ったと言われています。徹底的にカトリックを弾圧しました。多くの土地を奪い、それを自分の支持者たちへと分配しました。この虐殺行為などはアイルランド人の間で永く語り継がれていくこととなりました。クロムウェルは今でも、アイルランドで最も嫌われた歴史的人物であるといえます。

名誉革命

クロムウェルは一切の娯楽を禁止したため、民衆には不満が溜まっていきました。その不満を察知した議会派はクロムウェルの死後、議会の尊重を条件に王政の復活を認めるのです。しかし即位したチャールズ2世、そしてその後継いだジェームズ2世はともに、カトリックと絶対王政を強行的に復活させました。

その結果、1689年にジェームズ2世はフランスに亡命することとなりました。イギリスはオランダから王女メアリー2世とオレンジ公ウィリアム世を招きます。両王は議会が王権よりも優位に立つとする「権利の宣言」を承認し、1689年12月にそれを「権利の章典」として発行しました。これが有名な”名誉革命”です。

その一方で、退位させられたジェームズ2世はフランスのルイ14世の力を借りてフランス軍を率い、イギリス王位奪還を目指してアイルランドへ上陸。オレンジ公ウィリアム3世もアイルランドに上陸し、英王位をめぐる戦いがアイルランドを舞台に繰り広げられることとなりました。

パーネル法

ボイン川の戦い

1690年のボイン川の戦いで、ウィリアムは勝利を収め、ジェームズ2世は再びフランスへ逃げ戻りこととなります。残されたアイルランド軍も結局1691年にリムリックで降伏。この時に結ばれたリムリック条約はカトリックを寛容に扱うことを約束していましたが、その後の議会ではパーネル法というカトリックを取り締まる法律が制定されました。

リムリックに残る条約の石は、この時のイギリスの裏切りのシンボルとなりました。また、この戦いに敗れたアイルランドのリーダーたちは、ヨーロッパの他国へと亡命。彼らはワイルド・ギースと呼ばれており、アイルランドの民衆は再び自分たちのリーダーを失ってしまいます。

アメリカ独立運動による多大な影響

1775年に始まったアメリカ独立戦争は世界中に影響を与えました。もちろんアイルランドも大きな影響を受けることになります。

独立運動後のアイルランド

アメリカ側に参戦したフランスとスペインはアイルランドを英国への攻撃の拠点とみなし、イギリス軍はアメリカへ移動していたためにアイルランドは自ら武装することとなり自治を獲得しました。

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しかし実際のアイルランドの支配権はイギリス国教会に属する少数の地主に握られていたのです。その状況の中でこの時期、議会改革を目的としてユナイテッド・アイリッシュメンという組織が作られました。

単に議会改革を目的としていたこの組織は、フランスのアイルランド侵入、そしてフランスと結びつく恐れがあるという理由により、当時フランスと戦争中だったイギリスによりすぐに非合法化されてしまいました。

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その後ユナイテッド・アイリッシュメンは1798年にはウェックスフォードで蜂起しましたが、イギリスによりあえなく鎮圧。1801年、イギリスはアイルランドより自治を取り上げアイルランドは正式にイギリスの一部となりました。

解放者ダニエル・オコンネル

ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起失敗後に民族運動の指導者として出てきたのが、カトリックの地主であり政治家、弁護士のダニエル・オコンネルです。彼はカトリックの地位向上を目指し、安い会費で参加できる「カトリック協会」を1823年に設立、そして1829年には「カトリック解放法」をイギリス議会で可決させます。

カトリック信者は議員にはなれないことを分かりながら(反カトリック派を落選させるために)イギリス下院議員の補欠選挙に立候補して対立候補の二倍以上の票を獲得するなど、カトリックの道を開いていきました。同時期に若い世代が結成した「青年アイルランド」とも共に運動を進めていきましたが、やがて対立するようになり青年アイルランドがかわって主導権を握ることとなりました。彼らは治安当局からの弾圧等の中で動きを急速化させ、1848年に蜂起を決行しました。

蛇足ですが、今でも国民から解放者として認められているダニエル・オコンネルは後に紙幣の顔となったのです。

アイルランドの大飢饉

イギリス議会から独立に向けて動いていたダニエル・オコンネルが失脚し、失意のうちに亡くなった1847年頃、アイルランドは飢饉に見舞われて深刻な事態に陥っていました。歴史的にも重要な大飢饉:ジャガイモ飢饉です。

ジャガイモ飢饉

1845年に発生したアイルランド人の主食であるジャガイモの「胴枯れ病」は、アイルランドの社会や経済に大打撃を与えました。1843年にアメリカでは胴枯れ病が報道されていましたが、ヨーロッパ大陸やイギリスを経由してアイルランドへ到達したのです。イギリスではジャガイモが主食ではなかったために飢饉には発展せず、またアイルランドでも中流階級以上の家庭では肉や穀類も食べられていたため、ジャガイモを中心として自給自足していた下層階級の人々がもっとも影響を受けたと言われています。

しかしこのような深刻な状況下において、追い討ちをかけるようにチフスが大流行するのです…
大飢饉

この危機に対してイギリス政府は有効な対策をとらず結局はアイルランド国内で解決しなければならなかったため、アイルランド国内だけで100万人が餓死、100万人がアメリカなどに移住したといわれています。この当時の移民の中にはJ.F.ケネディ大統領の曾御祖父も含まれていたという話です。

1840年代初頭に800万人を超えていたアイルランドの人口は、20世紀初頭には450万人まで減ってしまいました。現在は600万人を超えていますが、ヨーロッパの中で移民により人口が減った珍しい国です。その証拠にアイルランド島以外に住むアイルランド人の人口は本国の人数をはるかに超えると言われ、アメリカ国籍をもつ人々のうち約4,000万人はアイルランド系、さらにオーストラリア人の約3割はアイルランド人の血を引いていると言われています。

アイルランド大飢饉

ちなみにこの飢饉の際のイギリスの有効でなかった対応について、1997年にイギリスのトニー・ブレア首相は、イギリス政府の責任を認め、アイルランドで開催された追悼集会において、謝罪の手紙を読み上げました。

19世紀の最重要人物「スチュアート・パーネル」

スチュアート・パーネル

スチュアート・パーネルは、ダニエル・オコンネルと並び称される19世紀の最重要人物の一人であるアイルランドの政治家です。(1992年に発行された100ポンド紙幣には彼が載っています。)スチュアート・パーネルの演説をイギリスの首相であったウィリアム・グラッドストンは”こんなにも優れた才能の持ち主は初めてだ”と称しています。

土地同盟の設立

1875年にパーネルがイギリス議会の議員になると、アイルランドの土地をイギリスの不在地主からアイルランド農民のもとに戻すために尽力しました。彼はアイルランド人に、地主や地代取立人に対するボイコットを促し、これによって地代の値を下げさせ、アイルランド人の小作人に土地を手に入れさせようとしたのです。

女性スキャンダルによる失脚

土地戦争と呼ばれるこの戦いに勝利したパーネルは、今度はホームルール(自治)に向けて動きだします。当時イギリスの2大政党のひとつだった自由党の投手、グラッドストンと組み、アイルランド自治法案を議会で通そうと尽力しました。しかし、パーネルは、志半ばで女性スキャンダルが発覚して、失脚してしまいました

アイルランドの歴史と政治家

長年の同僚であったウィリー・オシェアの妻であったキャサリン・オシェアと一緒に暮らしており3人の子供もいたといいます。パーネルがキャサリンと事実上の婚姻関係にあったことは議員の間ではよく知られていたそうですが、問題視されるにつれてあんなにも絶賛してくれていたグラッドストンにも見放されてしまったのです。

ゲーリック・リバイバル

政治的な面ではなく文化面での歴史も見てみましょう。20世紀に近づくにつれて、アイルランドでは先住民民族のゲール人文化を見つめ直すようになります。

19世紀の末頃から、アイルランドの中で民族的な意識が旧芸に盛り上がりを見せ、GAA(ゲーリック運動教会)は、古来からアイルランドで行われてきたスポーツ、ハーリングゲーリック・フットボールを復活させ今日まで続くアイリッシュスポーツとして確立させました。ゲーリック・リーグは話者人口が著しく減りつつあったゲール語の普及を目指し、W.B.イエーツやグレゴリー夫人らはアビー・シアターを設立し、国民演劇を発展に貢献しました。

20世紀以降の戦争とアイルランド

世界は第一次世界大戦。戦時中のアイルランドでは何が起こっていたのか見ていきましょう。

第一次世界大戦:イースター蜂起

1912年にイギリス議会はアイルランド自治を認める法案を通過させましたが、第一次世界大戦勃発のため、施行は延長されていました。多くのアイルランド人が、戦争に貢献すれば自治を確実にできると戦場へ向かいました。1916年のイースター(復活祭)に、アイルランド共和主義同盟(IRB)の軍事部門によって組織され蜂起が起こります。蜂起自体は1週間ほどで鎮圧されましたが、アイルランド義勇軍を率いたパトリック・ピアースや、200人規模の女性連盟を率いたジェームス・コノリーが処刑されたことで、当初は蜂起に冷淡な見方をしていた世論も独立の気運が強まりました。1918年12月、英国議会選挙でアイルランドに割り当てられた議席の大半を急進的ナショナリストが獲得、アイルランド独立の意思を表明しました。

アイルランドの文化と歴史

アイルランド共和国の設立

アイルランド人たちもイースター蜂起に対しての反応は冷淡でした。しかし、イギリス政府がこの蜂起に関わった人々を処刑したことで事態が一変することになります。イギリスによる暴挙がアイルランド人の心に火をつけたのです。その後1918年の選挙では共和派のシン・フェイン党が大勝利します。しかし彼らはイギリス議会には赴かず、アイルランドで議会を設立。アイルランド共和国の設立を宣言しました。

少し雲行きが怪しくなってきましたね…このことがアイルランドとイギリスの直接的な戦争を本格化することになるのです。

イギリス・アイルランド戦争

アイルランドがイギリスからの独立を表明したその日、アイルランド共和軍(IRA)がアイルランド警察2名を襲撃、その後IRAはイギリス軍や警察に対してゲリラ戦を続けていきます。警官を襲撃し武器を奪っていきました。IRAがゲリラ戦を繰り広げる中で国民議会は、アイルランド人が国家を運営できるということを内外に示そうとしていきます。

これをきっかけに「革命政府」が動き始め、土地問題や紛争問題を解決することを目的として「共和国裁判所」も作られました。そんな中、アイルランド独立戦争に対するイギリス政府の方法が世論からは批判的な目を向けられ始めました。結果1921年7月、イギリス政府は革命政府と交渉を始め、12月にはアイルランドに「イギリス連邦内の自治領」というステイタスを与えるという条約が調印されます。

「共和国」という多くのアイルランドのナショナリストが望んでいたものではなかったために賛成派と反対派の議論が白熱。長い交渉の末に、アイルランドは「アイルランド自由国」として英国から独立、北アイルランド6県は南部からは切り離されることとなりました。アイルランドが現在の共和国という形となったのは1949年のことでした。

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最後に、戦後から現在に至るまでの流れを見てみましょう。

北アイルランド問題

イギリス領であったアイルランドは、プロテスタントが多数派を占め、カトリックは少数派でした。1968年からはカトリック住民による公民権運動が活発になりましたが、このことが原因でカトリックとプロテスタントとの衝突が増加することになります。イギリスは治安維持のため、軍を北アイルランドに派遣し、1972年にはロンドンデリーでカトリックの行った平和的デモに対してイギリス軍は発砲、市民13人の死者を出す「血の日曜日」事件が起きたのです。
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翌年には北アイルランド議会が閉鎖されるなど、北アイルランド情勢は混迷を極め、IRAをはじめとするカトリックの過激派は北アイルランドのみならず、ロンドンなどイギリス本国にもテロの対象を広げました。そしてプロテスタントの過激派もテロで欧州するという泥沼の状態が続くことに。

1980年には、投獄されたIRAの囚人たちは、自分たちは政治犯として扱うことを求めましたが、イギリスはこれを拒否。ボビー・サンズをはじめとするIRAの囚人たちはハンガー・ストライキに訴え、10人が獄中で餓死するという事件も起きました。

しかしながら終わりなく続くと思われたプロテスタントとカトリックの対立は、1990年半ばに好転しました。1998年には和平が合意され、1999年にはプロテスタント、カトリックの双方の代表を含めた北アイルランド自治政府が発足しました。幾度かの前進と後退を繰り返しながらも、恒久的和平に向け、現在確実にその歩みを続けているのです。

以上が、アイルランドの現代までの簡易的な歴史です。侵略や虐殺、飢饉など歴史的にも虐げられてきた期間の長いアイルランドではありますが、その歴史を踏まえても他人に対して優しい心を持った方が多い素敵な国だと私は感じます。国同士の争いは単純に解決はできませんが、アイルランド人の相手を許す度量は世界平和に繋がるのだと信じています。